「肥前名護屋城/戦国武将スポーツかくれんぼ大会 〜スポーツかくれんぼ太閤杯@名護屋」を冠して始めた大会は2019年で3回目。11月10日(日)は風もなく好天に恵まれ、出場チームはいやがおうにも戦意を高ぶらせて試合に臨んだ。
昨年参陣の岡山・宇喜多秀家勢は領国の領民へ向けた諸事のため、福岡・筑前黒田勢は領内に流行る感冒で兵を募れず、残念ながら不参加となったが、競技の特徴を研究した精鋭5チームが集まった。初参陣の「大分つくみん隊
大友吉統 霜月の陣」は420年前の汚名をそそごうと唐津は名護屋の地に幟旗を立てた。足利義昭の陣跡である波戸岬少年自然の家は高揚感に満ちたのである。
肥前名護屋城についての解説を昨年の記述から以下に再録。およそ420年前に太閤豊臣秀吉の号令一下、全国から名だたる戦国武将が大集結したのが現在は唐津市の名護屋。歴史大河ドラマで主人公を張れる顔ぶればかり。
太閤秀吉は全国統一を成し遂げ、野望は中国“明”国への侵攻へ膨らみ、先ずは朝鮮半島への出兵の前線基地として、大阪城に次ぐ規模の城を九州は玄界灘を望む半島の突端に築いたのだ。文禄・慶長の役の前線基地であり、関ヶ原の戦いへ結局は続く、いさかいの芽生えた場所だったのかも。
島津義弘、上杉景勝、副島正則、加藤清正、豊臣秀保、堀秀治、前田利家、小西行長、徳川家康、黒田長政、宇喜多秀家ら、百数十の陣が城周りに設けられたという。この城郭都市に当時二十万人を超える人口があったというから凄い。武士はもちろん商人、職人が移り住み、文化人をも引き寄せることとなった。朝鮮半島への出兵は結果的に行き詰まり、秀吉の死が切っ掛けになり兵を引くことになるが、日本史の一時期、戦国武将のスターが一堂に会していたことは驚くに値する。そしてその要塞が今も石垣を残している。
「チーム黒田官兵衛」として参戦の九大チームには中国からの留学生も混じっていたが、超大国のゆとりからか、島国にっぽんの過去の誇大妄想はどこ吹く風、世界共通の遊び・かくれんぼに興じていた。肉離れは起きたが、流血のない穏やかな格闘技はこうして世界平和を追求する。
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